89歳の母が号泣したくりでんミュージアム

修繕庫の工作機械群を写真に収める母(2026年9月撮影)

立ち止まって号泣した母

9月20日と21日は89歳の母と二人で若柳の次男の家を泊りがけで訪問し、帰りに近くの「くりでんミュージアム」に寄りました。

私は二度目の見学ですが、母が「せっかく仙台から若柳まで来たので観光っぽいこともしていきたい」というので、「ならば・・・」と、連れて行きました。

「くりでんミュージアム」は小さくてこじんまりとした施設ですが私が大好きな博物館です。

過去に一度訪れている私が、簡単な説明をしながら母を最初の機関車庫に連れて行くと・・・

母は「あー」と立ち止まって絶句し、そのままハラハラと涙を流し号泣してしまいました。

実はうちの母は鉄工所の娘です。機関車庫に足を踏み入れた瞬間に、鉄と油のにおい、そして旋盤などの工作機械群にかつての実家を思い出し、「懐かしさのあまり涙があふれて止まらなかった」そうです。

私も幼いながら母の実家の工場はおぼろげに覚えています。母屋の勝手口と向かい合わせに工場の通用口があり、中に入ると様々な工作機械が並び、通用口の周辺にはタールの捨て場やおがくずの山がありました。

その頃はもう母の実家は鉄工所をやめていたので、私の記憶にある風景は廃業後のものですが、母が涙ながら曰く「壁や天井や窓の感じがまるで同じなの。そうそう、うちの鉄工所は本当にこんな感じだったのよ」「懐かしすぎて・・・胸が一杯で・・・涙が止まらない」

タイトルをご覧になり、鉄道の思い出を読みたいと思ってこのブログに来てくださった皆さんには恐縮ですが、うちの母のこころの琴線に触れたのは「鉄道」ではなく「工作機械群」のほうだったのでした。

知人に聞いたくりでんの思い出

旧若柳駅に保存されている昭和の頃の車両(2025年10月撮影)

私は一時期を除き人生のほとんどを仙台市内で過ごしているので、くりでん(栗原電鉄)にこれといった思い入れはまったくありません。「くりでん」という愛称もずいぶん後に知ったぐらいで、私の中では時折県内ニュースで耳にした栗原電鉄という呼び名(旧称)のほうがずっと馴染みがあります。(栗原電鉄はのちにくりはら田園鉄道に改称)

ですが今でも覚えているのは、1990年代に夫と自営業をしていた時にお手伝いに来てもらっていた栗原出身の知人女性のNさんの話です。何のきっかけでその話になったのかわかりませんが、Nさんは「くりでんで習い事に通っていた」と懐かしそうに話してくれて、ひととき思い出話に花が咲きました。

Nさんは築館(つきだて)のご出身で高校は佐沼高校と記憶していますが、今考えてみると栗原電鉄は築館を通っていないので、「築館」というのは私の勘違いだったのかもしれません。

または(当時)県北の地理にまったく不案内だった私を察して、敢えて私が知っていそうな地名を挙げて大雑把な説明をしてくれたのかもしれません。いずれにしても郡部の小中学生が電車に乗って習い事に通うというのも仙台在住の私にとっては初めて聞く珍しい話だったので、とても印象に残っていたのだと思います。

話は逸れますが、それから30年経って県内のあちこちを仕事でまわるようになり、当時よりはるかに県北の地理に詳しくなったいま考えてみると、栗原電鉄の沿線から佐沼高校(登米市)に通うのってけっこう距離がありますよね。

30年前は栗原も登米もどこにあるのかさっぱりわからず位置関係も皆目見当がつかなかったので、何も疑問に思わずに「ふーん」と他人事のように聞いていましたが、電車で習い事に通ったり遠い地域外の進学校に進んだりしたのですから、Nさんは教育熱心なご家庭で育った優秀な方だったんだな、と今さらながら思います。

くりでんミュージアムは個人的に「泣ける博物館」

タブレットなどの運行用品類(2025年10月撮影)

さて昨年(2025年)、あるお仕事で栗原市みちのく伝創館(栗原市栗駒岩ケ崎)を訪れて終了後に付近を散策してみると、埋められた踏切跡の道路の脇に、2007年に廃線になった栗原電鉄の線路がまだ残っていました。

岩ケ崎の路線跡(2025年4月撮影)

恥ずかしながら、私はこのとき初めて「ああ栗原電鉄ってこの辺を通っていたのね」とわかりました。またその年に若柳に引っ越した次男の家の近くに「くりでんミュージアム」という施設があることも知りました。

その後、同じ年の10月に次男の家に立ち寄る機会があったたため、ついでに初めてくりでんミュージアムを訪れたところ、小さいのに予想外の熱量を感じる博物館だったので驚きました。

写真が並ぶちょっとした記念館だろう、みたいな軽い気持ちで入館してみたら、かつて路線を走っていた本物の車両2台が中に入れる状態で保存されており、それだけでなく修繕のための工作機械や鍛冶場もあれば運行用品や当時の貼り紙などもあるなど、大物から小物まで全部保存展示されているような施設で、私はすっかり胸が熱くなり最後に見た資料館では涙さえにじんできました。

全体をひとことでいえば「こんなものまでよく残したなぁ・・」という感想に尽きるのですが、タブレットや旗や乗車券箱などの鉄道用具に加えて、修繕庫では前述の工作機械群や当時のままの配線の様子が残されていたり、道路を挟んで向かい側には当時の若柳駅がまるごと残っているなど、昭和・平成の頃の鉄道の様子がすべてそのままの状態で保存されていて、そこに「くりでん」を愛した地域の人たちの熱い思いが詰まっているような気がしたんですよね。

配電盤(2025年10月撮影)

旧若柳駅(2025年10月撮影)

「熱い思い」をひしひしと感じます

係員詰所(2025年10月撮影)

この写真は当時の「係員詰所」の様子です。古い室内に手書きの時刻表が貼ってあり、若い女性が書いたような筆跡が周囲の古さと比較して妙に違和感がありますが、日付を見るとH18(2006年)とあるので、実際に使用されていたものであることは確かだと思います。

これが実際に廃線の日(2007年=平成19年)まで使われていた部屋だとすると、備品類があまりにも古すぎるので、新調する余裕もないぐらい本当にお金がなかったのかな?と思って見たり。

運転士交番表の日付が3月31日となっていますが、これはくりでんの運行最終日でしょうか。人の名前が書かれた札もそのまま残っていますが、これも実際に勤務されていた実在の人物なのかしら?私はそう解釈したのですが、だとすれば個人情報にうるさいこの時代に、ひとりひとりから地道に了解を得て行ったのかな。

真相はわかりませんが、何を見ても「よく残したなぁ・・・」と思うばかりで、思わず「はー!」と感嘆の声が出てしまいます。そのためには相当な熱意とお金が必要なわけで、地元の皆さんのくりでん愛をひしひしと感じます。そして「ここは普通の博物館とは全然違うのだ」とその都度思わされるんですよね。

展示を見ながら一周回って資料室に戻ると、そこには小物類が陳列されていて、壁にはくりでんの歴史や日常風景の写真と解説、沿線の風景を模したジオラマなどがあります。

歴史に関する資料を見るとくりでんの勃興から衰退・廃線に至るまでがわかりやすく描かれており、それを読んだあとで在りし日の運行風景の動画を見ていると、くりでんを知らなかった私でもなんだか泣けてきてしまいますね。

さて今回、二度目の見学後に調べてみると、くりでんミュージアムには資料の保存を強く呼びかけた研究者たちの存在も大きかったようです。

例えば宮城学院女子大学の大平聡氏は、廃線が決まっていたくりはら田園鉄道に残る資料の保存を呼びかけた研究者の一人です。

大平氏は鉄道研究者ではなく日本史を専門とする歴史学者とのことで、くりでんに残されていた膨大な文書類を、単なる「廃止される鉄道会社の古い書類」ではなく、地域の歴史を伝える貴重な史料として捉え、保存の必要性を訴えました。

その呼びかけをきっかけに、ほかの研究者たちも加わって資料の調査・整理が進められ、それが現在のくりでんミュージアムにつながる大きな一歩になったようです。

そう知ると「地域の熱意と努力」だけで成り立ったわけではないことがわかり、私の好印象もいくらか目減り(?)するのですが、反面、ただの鉄道資料館ではなく、地域の暮らしと歴史がまるごと保存されていることには合点がいきます。

見学後、感涙にむせていたうちの母は「大宮の鉄道博物館よりずっといい」と何度も繰り返していました。私自身も(すべての人が私と同じ感想を持つとは思いませんが)個人的にはもっともっと多くの人が訪れてもいい施設だと思いました。

最後になりますが、今回のお土産は廃線御朱印(廃線印)を買いました。御朱印と言っても実際に御朱印が押してあるわけではなく、それらしく印刷されたただの薄い紙なのですが、収益の一部が廃線保存活動の維持・展示に使われるとのことで、全国展開されているプロジェクトのようです。(参考:廃線印.com

これを買うことでくりでんミュージアムを応援できるならいいなと思い購入しましたが、文字は近隣の平野神社さん(立派な神社です)が書いているそうなのでちょっとだけご利益もあればいいですね。(文字を書いただけでは望めそうもない?(笑))