89歳の母が号泣したくりでんミュージアム

号泣した母

9月20日と21日は若柳の次男の家を泊りがけで訪問し、帰りに近くの「くりでんミュージアム」に寄りました。

私は二度目の見学ですが、母が「せっかく(仙台から)若柳まで来たので観光っぽいこともしていきたい」というので、「ならば・・・」と、連れて行きました。

「くりでんミュージアム」は小さくてこじんまりとした施設ですが私が大好きな博物館です。

過去に一度訪れている私が、簡単な説明をしながら母を最初の機関車庫に連れて行くと・・・

母は「あー」と立ち止まって絶句し、そのままハラハラと涙を流し号泣してしまいました。

実はうちの母は鉄工所の娘です。機関車庫に足を踏み入れた瞬間に、鉄と油のにおい、そして旋盤などの工作機械群にかつての実家を思い出し、「懐かしさのあまり涙があふれて止まらなかった」そうです。

私も幼いながら母の実家の工場はおぼろげに覚えています。母屋の勝手口と向かい合わせに工場の通用口があり、中に入ると様々な工作機械が並び、通用口の周辺にはタールの捨て場やおがくずの山がありました。

母曰く「室内や天井や窓の感じがまるで同じなの。そうそう、本当にうちの鉄工所はこんな感じだったの」「懐かしすぎで涙が止まらない」

タイトルをご覧になり、鉄道の思い出を読みたいと思ってこのブログに来てくださった皆さんには恐縮ですが、うちの母のこころの琴線に触れたのは「鉄道」ではなく「工作機械群」のほうでした。

くりでんミュージアムは個人的に「泣ける博物館」

私は一時期を除きほとんどの人生を仙台市内で過ごしているので、くりでん(栗原電鉄)にこれといった思い入れはまったくありません。

ですが唯一、とても印象に残っているのは、1990年代に夫と自営業をしていた時にお手伝いに来てもらっていた栗原出身の知人女性(仙台在住)のNさんが「くりでんで習い事に通っていた」と懐かしそうに話してくれたことです。

Nさんは築館のご出身で高校は佐沼高校です。当時はまだ今のように宮城県内の地理に詳しかったわけではないので、そういったお話も「へー」という相槌だけで他人事のように聞いていましたが、今考えてみれば、築館(栗原市)から佐沼高校(登米市)に通うって、けっこう距離ありますよね。。。

もしかしたら「くりでんで通っていた」というお話も塾に通っていたお話だったかもしれないので、(今思えば)Nさんは地域の圏外の高校に通うのにふさわしい秀才だったかもしれず、もっと前向きな反応をしてあげればよかったなか、と、思ったりします。

さて、そんなあれこれで、利用者としての経験はないものの、「くりでんってどんな路線だったんだろう?」という思いが消えずにあって、今回と同様に次男の家を訪問がてら、初めてくりでんミュージアムを訪れたのが昨年です。

そして「くりでんミュージアム」は個人手的には「泣ける博物館」でした。地域の皆さんの熱い思いを感じずにはいられないからです。

たぶん誰かの「熱い思い」がある

昨年、はじめて「くりでんミュージアム」と見学してまっさきに感じたのは「こんなものまでよく取っておいたな」という感嘆符でした。

私は鉄道オタクではありませんが(たぶん?)、幼少時に住んでいた地域が仙石線の沿線沿いで、踏切の詰所にもよく遊びに行っていたので(詰所のオジサンたちは、私のようなへんてこりんな女の子が来ても叱らずに優しく相手をしてくれた)、当時の鉄道の雰囲気って妙に肌感覚に残っているんですよね。

通常の鉄道系の博物館は車両を展示しているだけのものが多いのかもしれませんが、くりでんミュージアムは違うんです。

冒頭で述べた工作機械やら、その当時使われていた備品・消耗品の類やら、歴史的なヒストリーや沿線のジオラマ、配線に至った経緯の展示、そして運行最終日の動画(たぶん)とか、まさにまるごと「くりでん」なんですよね。

廃線が決定したら不用品として処分されるべきこれらのツール類を捨てずに残したこともすごいと思うし、若柳駅をまるごと残したのもすごい。

そして私が一番好きな「係員詰所」は昔のロッカーや当時の実名入りシフトだけでなく、職員さんが手書きしたと思われる模造紙書きの時刻表までそのままになっており、それがむしろ廃線時のある瞬間を切り取っているようで、私としては「はぁ~」という驚きの言葉しか出てきませんでした。

くりでんミュージアムの資料室にはくりでんの創業から廃線までがわかりやすく展示されています。