今回は自分の備忘録です。そのため、無駄に長く、落としどころもありませんがご容赦ください。

----------

先日、仕事先に向かう途中で、原田甲斐の首塚がある登米の東陽寺というお寺に立ち寄りました。私は8月9日に茨城県のある社会福祉法人さんのオンライン研修で講師を務めたのですが(ブログはこちら)、参加者の中に宮城県にゆかりのある方がいらっしゃって、その方に「登米の東陽寺がご親戚」と伺ったことがきっかけです。そのお寺には伊達騒動(寛文事件)で有名な原田甲斐の首塚があるそうです。

実はその数日後に登米を通って花泉(岩手県)に行くお仕事があり、調べたところ三陸自動車道をひとつ先のインターで降りれば簡単に立ち寄れそうな場所でした。そこでこれも何かのご縁と思い(歴史が好きなこともあって)お仕事前に寄ってみることにしました。

詳細に関しましては、別のブログに書いたので以下をご覧ください。

? 花泉の途中で登米に立ち寄り東陽寺で原田甲斐の首塚を見て「お食事処 ポスト」でホルモン定食(宮城県登米市)

原田甲斐の法要

NHK大河ドラマ「樅木は残った」のオープニング画面

伊達騒動をわかりやすく簡単に言うと?・・・

伊達騒動は伊達藩の役職者同士の内紛です。諸事情によりわずか2歳の男の子が藩主になり、(通説では)その後見役らによって不公平で偏った政治が行われたため、不利益を被ったある役職者が幕府(中央政庁)に一連の現状を直訴しました。

幕府が関係者を呼び出し、それについて江戸で審議する大老の屋敷の控室で、呼び出された関係者のひとりである原田甲斐(はらだかい/船岡城主)が対立する相手(伊達安芸/だてあき/涌谷城主)に突然切りつけたため、この件はテロ事件に様変わりしてしまい、その場は一瞬にして混乱の斬り合いになりました。その中で原田甲斐や伊達安芸ほか伊達藩の2名の重鎮が死亡してしまった、というものです。今でいえば国の審議会や聴聞会で殺し合いの殺人事件が起こるようなものですから、当時としても大事件です。(真相や背景には諸説があるようです)

それによって原田甲斐は突然乱心した逆臣としてお家断絶になり、甲斐(事件当時53歳)の子供の4人の男性や男子の孫2人は全員切腹、斬首、という痛ましい結果になりました。(妻と娘は他家お預けの処分)

よって原田甲斐は伊達藩の歴史上では犯罪者であり、この事件を素材にした歌舞伎「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」でも、原田甲斐に相当する仁木弾正(にっきだんじょう)は、妖術まで使いこなす極悪人として描かれているようです。

しかしその一方で、この事件を詳しく知った小説家の山本周五郎が「原田甲斐は決して逆臣ではない」という認識のもとに書いた小説が「樅ノ木は残った」です。そしてこれがNHKの大河ドラマ(1970年/昭和45年)になりました。

私自身は小学生だったのでストーリーの記憶はおぼろげですが、オープニングの能面や竹やぶが風に揺れる映像、テーマ曲、平幹次郎さんの原田甲斐、憎たらしい(?)佐藤慶さんの伊達兵部(ひょうぶ)などは鮮明に覚えています。宮城が全国版の舞台になったご当地ドラマとして毎回家族で熱心に見ていたのです。

※大河ドラマ「樅ノ木は残った」はNHKオンデマンド(有料)で総集編の(第一部第二部)を見ることができます。

原田甲斐の首と法要

東陽寺山門脇の立て看板

さて、東陽寺の山門脇の入り口にある立て看板を読むと以下のように書いてあります。

寛文11年(1761)3月27日大老酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)の屋敷で斬死した原田甲斐(はらだかい)の死体は、芝山内の良源院に葬られたが、首だけは密かに船岡の東陽寺に運ばれ、後に東陽寺が米谷に移るとき原田甲斐寄進の梵鐘に首桶をかくし船で密送、この地に埋葬し銀杏(いちょう)を目印にしたと伝えられる。

延宝5年(1677)3月27日原田甲斐七回忌に当り、遺臣堀内茂助以下139名が密かに集り法要を営み、逆臣の汚名を受けた故主の孤忠を偲び追福を修した。その時の連名状が現在寺宝として当寺に蔵されている。

いつの世も世間には建前と本音があり、公的な文書では悪人とされている原田甲斐が本当にそうだったのかは誰にもわかりません。

ですが遺体からこっそり(?)首だけ江戸から宮城に運び、首だけでも原田家の菩提寺(東陽寺)に埋葬したいと思う人たちがいたようです。お家断絶によって東陽寺も船岡から登米の米谷に移転しましたが、首桶は阿武隈川を下り北上川を上って運ばれたそうです。しかも七回忌には遺臣や町民がひそかに(といっても139名)集まり、法要を営んだとのこと。

個人的に疑問は多々残ります。まずご遺体からどうやって首だけ切り離すのか?原田甲斐は斬り合いで亡くなっているので斬首ではないと思うのですが、そこから首だけ切り離して運ぶには、ある程度周囲が寛容に見逃してくれないとできないことでは?などと思ってしまいます。

加えて、亡くなったご遺体は日々痛んでいくので、(死後経過後の時期によっては)運搬の際は相当な悪臭がしたはずです。なのでこれを「こっそり」というのは無理なのではないか?と思ったりもしています。

なので個人的には、表向きは「内密裡」でも実際には暗黙の了解があったようにも感じてしまうのですが、あくまでも憶測です。

ちなみに原田甲斐の遺体(本体)を埋葬した芝山内の良源院は、増上寺の子院として現在の港区役所の場所にあり、仙台藩伊達家の藩主が増上寺参詣する際に支度所として使用されていたそうです。つまり多少は伊達家にご縁があるお寺だったんですね。

ですが、残念ながら現在は廃寺となっているようです。良源院に関する詳細は以下のブログをご覧ください。

? 「浅岡飯炊きの井」―良源院 (江戸のヒロインゆかりの寺社) 

原田甲斐の孫の法要

2021.6.10の河北新報ウェブサイトの記事

原田甲斐の孫は鬼ごっこで目隠しをして殺された

・・・と、ここまで書いてお詫びを申し上げたいのですが、私は伊達騒動についてはこれまでほとんど知識がなく、いままで書いてきたのはすべて東陽寺参拝をきっかけに、自分が後日調べた知識です。

その中で悲しく切ないニュースを目にしました。

? 伊達騒動で非業の死、原田甲斐の孫弔う 1年遅れて三百五十回忌

お家断絶と聞くだけではすぐにイメージできませんが、結局犯罪者の場合は、男系の一族は皆殺しにされてしまうということです(切腹であっても斬首であっても)。

5歳の采女は子守役と鬼ごっこをしていて、目隠しをされ、声のする方へ行った際に殺されたと伝わる。

記事を拝見すると、原田甲斐の采女(うねめ)という5歳の孫は、鬼ごっこで目隠しをしたときに殺されてしまったようです。

それもまた周囲の思いやりなのかもしれませんが、読んだだけでも切なく可哀そうな気持ちになります。

一部の関係者だけが人に見られないように供養

ですが、幼児といえども公的には犯罪者の孫なので、記事には以下のように書いてありました。

・一部の関係者だけが長年、ひそかに2人を弔ってきた
・木村家では代々、墓を口外せず、当主と妻の2人だけで人に見られないよう供養を続けた。町が墓の存在を把握したのは昭和50年代といい、その後も情報が広く発信されることはなかった。

これを読んで、私は軽い衝撃を受けました。今の世の中でもこういうことってあるんですね。昭和50年代といえば私は高校生~20代前半ですが、思い出しても少し前のことのようで、「はるか昔」という感覚はまったくありません。そういった中で関係者の皆さんは本当に近年まで代々秘密を守り続けていらっしゃったということです。

我が家には守るべき秘密などは特にありませんが、もしそういった家に私が生まれてしまった場合、息子たちにそれをうまく伝承できるのかまったく自信がありません。息子たちが親に反発して「今どき意味のない風習は辞めるべき」と言うかもしれませんし、私たち夫婦が逆に面倒になって、どこかのタイミングで「もういいよね」と勝手に辞めてしまうかもしれないのです。

そんなことをあれこれ考えるにつけて、何かの秘密を「代々守り続けている」というのは、すごい(としか表現できない)ことだと思うんです。

愛子の鬼子母神祭

愛子の鬼子母神堂

さて、今年(2022)の2月、私は油絵が趣味の母の運転手を務め、青葉区愛子(あやし)の杜の額縁工房というところに行きました。母が店主とあれこれ打ち合わせをしている間、ひとりで付近を散策していると、近くに小さなお堂がありました。

帰宅後に調べてみると、このお堂は鬼子母神堂というらしいのですが、ネット検索で興味深いことがわかりました。

それはもしかしたらこのお堂に祀られているのは、愛子の隠れキリシタンの神様ではないかということです。愛子地区は隠れキリシタンの里だったのかもしれないとのこと。

そしてこのお堂に関しては、祭の日とされている8月15日(マリア様昇天の日)に、現地の12件のお宅だけが今も代々不思議な慣習をひっそり守り続けているらしいのです。

愛子の12件の家だけが代々ひっそりと行っている鬼子母神祭

愛子の鬼子母神内部

以下、みやぎ会 平成20年夏号(vol.10)から引用します。

ここの祭りは、旧暦の八月十五日の夜に、少数の限られた家だけでひっそりと行われます。

この日には祭りを行う家では他人を泊めません。昔は入籍前の嫁や婿は前日に出家に帰したそうです。

祭りの日の夕方になると戸締まりを早くし、大声での話しをつつしんで静かに時の過ぎるのを待ちます。月が昇る頃着物に袴姿の戸主が、供え物を載せた高脚のお膳を持ち、廊下からそっと外に出ます。お膳にはお頭つきの生魚、初穂を入れたお赤飯、お神酒などの供え物に、すすきの茎で作った12膳の箸を添えます。戸主が家を出ると家族は全員無言で戸主の帰りを待ちます。

複数のサイトの情報を総合すると、戸主がお堂にお供えして戻ると、ようやく家族は口を利くことができるそうですが、戸主はその間、自分がお参りする姿を誰にも見られてはならないそうです。この行事は今も続いていますが、現在はお堂の周りが住宅地なので、自家用車でお堂の近くまで行き、人通りが絶えた時を見てお参りをしているそうです。

この行事は色々な観点から、隠れキリシタンのお祭りではないかとも言われていますが、この行事を行っている方達にはそういった認識はないとのこと。そして私は以下の一文が印象に残りました。

祭りを行っている家では、先祖が永い間大事に守り続けてきた祭りであるため、時代に合わない行事であっても、ここでやめることはできないといっています。

そうなんですよね。ここまで続いてしまったものは、誰かが止めるとそれが災いになるのではないか?と、私ならきっと思うでしょう。続いているものは続けていくしかないというのが、正直なところかもしれません。

原田甲斐の孫の供養も、この鬼子母神祭も、ほかの人に知られないようひっそりと代々受け継がれていたものだと思いますが、今の世の中でもそういうことがある・・・ということが、自分には驚きでした。なので書き留めておこうと思いました。