懐中電灯の灯りを頼りに暗闇の中でインスタントラーメンをつくる母

 

今年も3月11日がやってきました。
我が家は夫婦共に、沿岸部に親戚や親しい知人がおらず、
息子たちは(当時)宮城県から離れており、
家にも大きな被害はなかったし、
亡くなった人も身近にはいませんでした。

 

ですが、7年経った今、思う事は、
たとえ大きな被害がなく、
誰かを失うことがなかったできごとだったとしても、
もっと震災後の日常を記録しておけばよかったし、
もっともっと写真を残しておけばよかった、
ということです。

 

近所のスーパーは、いったい何日後に営業を再開したのか?
長時間並ばなくてもガソリンが給油できるようになって、
震災後に初めて車を満タンにしたのはいつだったか。

 

本当はそういうことって、結構大事だと思うんですよね。
なのに、全然詳しく記録していないし、
写真もそれほど多くありません。

 

でも、今日は記憶が風化する前に、
我が家の記録を息子達に伝えるためにも、
2011年3月11日に、笹崎さん(つまり私)の家が、
どんな感じだったのかを、克明に思い出して、
できるだけ、詳しく書き残そうと思います。

 

我が家は被災しませんでしたけど、
被災しなかった人の仙台市中田地区の1日と、その後が、
どんな感じだったか・・・

 

今日は私自身と私の家族ために残すブログなので、
とても長くなると思いますが、ご勘弁ください。
(追記:3/13に目次を追加し、拾い読み可能にしました。)

 

当日は仕事がなく自宅に居ました

 

2011年3月11日は仕事がなかったので家に居ました。
前月からスタートした、
青森県5か所を周る一連の研修(仕事)を終えて、
前日に十和田市から帰って来ましたが、
交通費清算のために依頼先の会社さんに出掛けるのが億劫で、
3月11日は、外出しないことに決め、
朝からブログを書いたり、Twitterで知人とやりとりなどを、
していました。

 

以下は3月11日当日のTwitterのスクリーンショットです。
詳しい仕様はわかりませんが、
twilog を使えばTiwtterの過去の投稿が見られるようです。
これはいいですね。

 

私の3月11日当日のTweet(直リンク)
3月12日(なし)※電気も電話もネットもNG
3月13日(なし)※電気も電話もネットもNG
3月14日 イーモバイルが復旧、残りはNG 電気がない残量がない
3月15日 au復旧 WillcomはNG 電池残量がない 夜電気復旧!
3月16日 店舗再開情報を知り買い物に出始める

 

さて、時間を戻して、
twilog で自分の当日の直前の行動を見ると、
大地震が発生する約23分前の、
14:23にブログを一本書き終えて、そのあと、すぐに、
友人の先崎さんと絡んでいることがわかります。
このときはすでにFacebookをやっていましたが、
まだ友達が各段に少なく、自分の交流はTwitterがメーンでした。

 

当日、直前の午前中に書いたブログは、
「面接は名回答より即答即応」というものでした。
この日は、なんと朝にもうひとつ書いています。
「◆再就職支援の研修でした」
青森県5か所を終えたばかりで、テンション高かったんですね^^
でもこうしてみると、SNSやブログは書いておくものだな。
いい記録になります。

 

 

母と顔を見合わせすぐに外に出た

 

そして、11日の午後2時46分ごろ、
事務作業などでPCに向かっていたら、
ゴゴゴゴと腰と足元に響く大きな振動が来ました。

 

私は高校3年のときに宮城県沖地震(1978年/昭和53年)
を体験しているので、大きな地震はわかります。
「これは大きい」と、早い段階で感じたので、
すぐに席を立って部屋の扉を開けて、隣の台所に出ました。

 

台所から見える茶の間のほうには、
隣室で昼寝をしていた母も出て来ていたので、
「地震だ」と声を掛け合ったと思いますが、
何を言ったかは覚えていません。

 

・・・と思っている間に、
家がものすごく揺れ始めて、物がバサバサ落ちてきて、
カチャーンとガラスが割れる大きな音が聞こえてきた時点で、
なんとなく、不穏で非常にヤバい雰囲気を感じました。

 

「これは外に出た方がいいんじゃないか」と思い、
母に、「外に出よう」と言って、
茶の間の縁側のサッシ戸を開けて、
二人で庭に降りました。

 

と!

 

その瞬間に、
立っていられないほど地面が大きく左右して、
私と母は本当に倒れそうになり実際に立っていられなかったので、
突然の大揺れに「キャー」と思わず大声を上げながら、
庭の地面に、しゃがみこんで、
土の上に直接手をついて体を支えるしかありませんでした。

 

そのすぐ後、さらに同じぐらい(またはそれ以上)の揺れが起こりました。

 

とにかく、少しでも家から離れないと危ない。
何かつかむものが欲しくて、二人で揺れる大地によろけながら、
庭の植え込みの中に入り、揺れが収まるまで、
それぞれ別々に、庭の立ち木の細い幹につかまっていました。

 

それにしても、人って想定外のことが突然起こると、
急にテンションが上がって、意外にも笑ってしまうんですよ。
このときも、途中からは女子高生のように(?)
「ちょっとー!なにこれー?なにこれー?」と、
笑うしかない感じで、木につかまっていました。

 

意外に軽かった室内の被害

 

揺れが収まって、真っ先に思ったことは、
「30年周期でまた来る、と言われていた
宮城県沖地震がついに来たんだ」ということでした。
(真相は違ったみたいです)

 

家の中に戻ってみると、洗面所がメチャメチャに崩れていました。

 

 

ですが、茶の間や台所は、思ったほどではなく、
冷蔵庫や食器棚やTVが軒並み倒れて室内がひどかった、
昭和53年の宮城県沖地震よりは、被害が軽い感じがしました。
以下は、記憶では直後の写真・・・のはずなんですが、ほんとかな。
書棚がこんなにきれいなはずはないので、
(並べて置いていたCDのケースが軒並み壊れた記憶有り)
茶の間の写真は、少しだけ片付けた後のものかもしれません・・・

 

スライドショーには JavaScript が必要です。

 

被害が軽くて済んだのは、うちの母のお陰かもしれません。
うちの母は、来るべき宮城県沖地震に備えて、
1階の家具と言う家具をすべて、
L字型の固定金具で留めていたんです。
ですが、宮城県沖地震では台所の冷蔵庫や食器棚が倒れましたが、
それらは、対策をしていなかったのに、今回は倒れませんでした。

 

また、宮城県沖地震では、2階の家具も机以外は皆倒れましたが、
そちらも今回は、無事。
一番心配していた婚礼タンスも、対策していないのに動いた様子がなく、
地震としては、今回のほうがずっと大きいのに、
たぶん、揺れ方とか揺れの方向なども、関係あるんでしょうね。
宮城県沖地震のときは、どの部屋もすぐに入っていけないぐらい、
床一面が倒れた家具や落ちてきたもので埋まっていましたが、
今回は足の踏み場がちゃんとありました。

 

昭和50年代の現役ラジオが大活躍

 

 

震災直後に、我が家が真っ先に何をやったかと言えば、
まず、ご近所が集まっての立ち話。

 

地震で電気が止まってしまい、TVが見られなかったので、
ニュースで情報も確認できず、自然に皆が外に集まって来て、
「強かったね」「すごかったね」「宮城県沖地震が来たのかね」
「どうやら宮城県沖地震ではないみたいだよ?」
などと、30分ぐらい(たぶん)雑談が続きました。
(私は時間がもったいないので、交ざらなかった)

 

散乱した部屋の片づけに入ったのがそれからなので、
近隣は本当にのどかで、のんびりしていたし、
私も、散らかった部屋を眺めてうんざりしながら、
「はぁ~、宮城県沖地震のときみたいに、
またこれを片付けるのか・・・」と、
どこから手を付けるべきか、考えあぐねていました。
夫は今日は泊り勤務で夜も家に帰らないので、
あーあ、これらを、二人で片付けるんだなぁ・・・(ゲンナリ)

 

このときから、数日間は、
母のラジオが大活躍しました。

 

うちの母は、今から30年以上も前に亡くなった父が、
病床で聞いていたラジオを、震災時に愛用していて、
寝る前に枕元などでたまに聴いていました。

 

だから、電気が止まったとわかったときも、
すぐに自室からラジオを持ってきて、
つけっぱなしでニュースを流していたんです。
そのラジオは震災から7年経った今も現役なので、
記念に今日(2018.03.11)、写真に撮りました。
松下電器産業のRF-032というAM-FMラジオです。

 

このラジオは亡くなる前に父が病院で聞いていたものなので、
昭和58年(1983)には確実にあったものです。
とすると今日(2018.03.11)の時点で、
35年間も、故障せずに動いていることになりますね。

 

 

今となって思うんですけど、
災害時はいくらラジオが有効と言っても、
普段から使っていなければ、
いざというときに置き場所を忘れてしまい、
役に立たないこともあるように思います。

 

だから、災害のために何かを備えるのではなく、
ラジオ、懐中電灯、などは普段から、
生活の一部にしておかないとダメだと思うんです。
そのほうが、何も考えずに習慣的にすぐ使えるけど、
普段ラジオを全く使わない人は、
いざというときにも、使えないことが多いんですよね。

 

というのも、その後、災害用に新しく買ったラジオやライトを、
別件で使おうと思って探したら、置き場所を忘れてしまっていたり、
ラジオは、ただ買っただけで局を何も設定しておらず、
周波数を合わせる方法も、すぐにわからなかったから。
なので、災害のために新たに何か準備するのではなく、
災害に活用できる習慣を、生活の中に組み込んでおくほうが、
実際には、はるかに有効だと思います。

 

「荒浜に遺体」のニュースは誤報でも有効だったと思う

 

さて、母もご近所の立ち話から戻り、
奥の部屋から持ってきたラジオでニュースを聞きながら、
植木鉢や園芸用品が散乱した庭を片付け始めていると、
ラジオから、各地の震度と共に、
「大津波警報 〇メートル」という言葉が聞こえてきました。

 

各地の震度が読み上げられたので、他県も揺れたらしいですが、
それよりも「大津波警報」が気になりました。
だって「警報」ですよ?しかも〇メートルとか言っています。
今までの「〇〇港の潮位が〇センチ上がりました」とは違うようです。
何度聞いても、「メートル」って言っているんですよね。

 

「お母さん、津波だってよ?〇メートルって言ってるよ?」
「あらー」

 

このとき聞いたラジオの警報が何メートルだったかは忘れました。
ただ、来ることが確実であるような緊迫した言い方や、
〇メートルという具体的な高さを聞いても、
それがどういうことなのか、全くイメージできず、
すごいことなんだろうな、とは思いながらも、
ちっとも現実感が湧きませんでした。

 

当時のTBCラジオをアップされている方がいるので、
以下に動画を埋め込んでおきます。
それによると、6メートルと言っているようです。

 

 

でも正直言って、この放送で、
実際に起こったあの現実を想像するのは、私には不可能でした。
何も思い描けないのです。

 

それに、私の中には、津波は都市部ではなく、
三陸の漁村など、郡部の沿岸部に来るという、
今思えば妙に間違った固定観念があって、
いくらラジオで警報を聞いても、
ものすごく他人事のような捉え方をしていたと思います。

 

ところが、ラジオから、その後流れてきた以下の一報が衝撃でした。

 

「仙台市若林区荒浜の路上で
200人から300人の遺体が発見されたということです」

 

私はラジオしか聞けない状況でしたが、
同じ内容の報道は、TVでもされていたようです。

 

 

えっ、荒浜ってあの荒浜?
遺体が200人から300人?

 

ここで私は、初めて、ようやく、
どえらいことが起きた、と、思いました。
これを聞いて初めて、
6メートルの津波=人が死ぬ という事実に、
リアリティと緊張感を持つことができたんです。

 

ですが、停電でTVが全然映らないので、
ラジオの断片的な情報だけでは、単に津波と言われても、
なぜそれで人が亡くなるのか、全く理解が及びません。
津波を知らないということはそういうことなのです。

 

なんだ、なんだ、なんだ、なんだ?
荒浜(若林区)に一体何が起こったんだ?

 

これがもし、自分が一度も訪れたことのない、
沿岸部の町だったら、
私はここまで、情報を欲しなかったと思います。

 

ですが、遺体がたくさん見つかったのは、あの荒浜。
小さい頃何度も泳ぎに行ったり、大人になってからは、
家族で仙台港から自宅に帰るときに経由して、
途中のセブンイレブンに寄ったりしたあの荒浜です。

 

私は電気が復旧していないかと、何度もTVをつけましたが、
TVはうんともすんとも言いませんでした。

 

そんなことより、もうすぐ日が暮れます。
宮城県沖地震のときも一昼夜停電したので、
今回もたぶん、今日は電気はつかないのでしょう。

 

そう思うと、わずかでも明るさが残る今のうちに、
できるところまで片付けて、
せめて寝る場所だけでも作っておかないと、
夜になったら手も足も出ないと思いました。

 

ふっと周囲が明るくなった気がしたので、
庭の方に目をやると、突然、大量の雪が、
空からぶわーっと降り始めていて、
あっという間に庭一面が白くなりました。

 

これは少しでも周囲を明るくしてくれようとする、
神さまのはからいにも思えましたし、
逆に、亡くなった大勢の方の魂が降らせている、
天国への道しるべのような雪だとも思いました。

 

先日、読んだ、
河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙 (文春文庫)」では、
この荒浜のニュースは不正確な誤報であったと結論付けています。
ですが、私は、メディアが発信してよかった、
むしろ発信すべきニュースであったと思います。

 

なぜなら、多くの人の心に重大な緊急性を植え付けたから。

 

誤解を恐れずに、有り体に言えば、
「津波が来るとたくさんの人が死ぬ」
これを、真っ先に教えてくれた第一報であり、
その後の救助に計り知れない貢献をした、
意義のあるニュースであったと思うのです。

 

震災直後に閖上に向かった人のTwitterでは、
道の脇で普通に何人も人が亡くなっている、
それがまだ放置されている、
というつぶやきを何度も目にしました。
荒浜のニュースは不正確な誤報でしたが、
大きな目で見れば、現実と大差がなかったように、
今でも感じています。

 

※文中の「ドキュメント大震災」の記事に関しては、
こちらの方のブログが参考になります。

アナログ電話で助かったけど・・・

 

何時だったか、もう忘れましたけど、
懐中電灯を灯して暗闇の中で
ようやく電話機の場所にたどり着いたという記憶がないので
たぶんまだ明るさが残っている夕方だったと思います。

 

呼び出し音が鳴ったので、受話器を取ったら、
それは長男の勤務先の上司からの連絡でした。

 

「息子さんは、地震による火災発生の消火活動のため、
先ほど、気仙沼に向かいました。」
ご家族の方に、お知らせいたします、という内容でした。

 

長男は東北以外の地区で、消防の仕事をしています。
それが、少し前に気仙沼に向かったというのです。
え?え?え?なんで?なんで気仙沼?

 

そのとき私は、気仙沼が火事でひどいことになっているのを、
全く知りませんでした。
この時点でもまだ、被害はほぼ宮城県に限定されているように、
感じていたので、息子たちは、宮城県内の各地に分散して、
消火・救援活動を行うのだろう、ぐらいしか考えませんでした。
たまたま息子が任命されたのが気仙沼だったのかな?
という認識でした。

 

岩手や福島にも大きな被害があったということは、
この段階では、自分はあまり鮮明な記憶がありません。
各地の震度は何度も放送されたと思いますが、
「荒浜に300人の遺体」のような情報がないのです。

 

河北新報の一番長い日 を読むと、
津波に襲われた沿岸部は、被害が大きすぎて、
水やがれきで道路がふさがれ、
なかなか記者が現地にたどり着けない様子がわかります。
しかも15~16時台に発生した津波で、
甚大な被害が出ていると皆が気付いたのが、
夕方ですから、その後は真っ暗で何も見えません。
(東北一円が広範囲に停電)
つまり、報道できる人が現地に行けず、
映像のないラジオで流せるような確かな情報が、
この段階ではなかったのかもしれません。

 

被害がこのぐらい大きいと、報道さえできないのだ、
と、今は改めて思うようになりました。
電気が来ないので、
TVで空撮の映像が全国放送されたのも知りませんし、
後述しますが、災害のさなかに居る人ほど、
状況がよくわかっていないんです。

 

さてその後、私の電話機は母に占領されてしまい、
母は、友人や親せきに電話をかけまくっていました。

 

少し話がそれますが、
私の家は、電話が2回線あります。
住まいそのものは私の実家ですが、
結婚して一度家を出てから、
父の死後戻ってきて同居を始めた時に、
それまでの電話契約を解除せずに、
今の家に足してもらったのです。
なので一本が母用、一本が私達笹崎一家用です。
(母と私は苗字が違います)

 

そして、私達家族用の電話契約は、
停電になっても通話ができるアナログ回線を、
災害時のためにあえて残していました。
昔の電話回線って、給電もしてくれるので、
旧タイプ(電源不要)の電話機があれば、
電気がなくても、通話できるんです。

 

そして都合がよかったことに、
私は前職(プロバイダーのリーダー)の仕事柄、
新人研修用に、古い電話機を何台か持っていました。

 

そこで、このときは、大至急モジュラージャックに、
古いタイプの電話機をつないで、
受信も発信も可能にしていたんです。

 

だから、震災が起こった日の当日は、
携帯やPHSは全く通じないのに、自宅の家電話からだと、
外部との通話には、それほど不自由しませんでした。
というか、母の親せきや友人の場合は、
先方も、アナログ回線と旧式電話だったりするので、
割と普通に話ができたんですよね。
長男からも、確認の電話が来たし。
(そのときは気仙沼の話は出なかったので、
急に出動が決まったのだと思います)

 

なのでまず、母の連絡を優先して、
自分は、明日でいいや、なんて安易に考えていましたが、
これは失敗でした。

 

なぜなら、「普通に電話ができた」のはこの日だけで、
翌日からは家電話も使えなくなってしまったからです。
理由は、電話局の自家発電の燃料が切れたから。
つまり、電話局も電源を失ってしまったんです。

 

恥ずかしながら、私はこのときまで、
自家発電というのは、永遠に続くものだと思っていました。
電気を起こすためには、燃料が必要だったなんて、
思ってみたこともなく、自家発電の設備さえあれば、
発電し続けることができると思い込んでいました。
ま、素人考えなんて、そんなもんですよ。

 

携帯の基地局も同様です。
しかもそのための燃料が、1日しか持たないなんて、
一体、誰が想像したことでしょう。

 

携帯が繋がらないのは、全国から通話が集中しているため、
と、思っていましたが、実はそうではなくて、
自家発電の燃料切れで、基地局そのものがダウンしてしまい、
基地局としての機能を果たせなくなったんですね。
だからもう、発信も受信も何かもがすべてできなくなりました。
停電しているので、当然、インターネットは使えません。

 

自分用の連絡をすべて後回しにしたことがあだとなり、
私は「自分の無事」を他人にきちんと伝えることができませんでした。
そのため、電気が復活して電話やネットが使えるようになる、
一週間後まで、安否不明の人になってしまい、
皆さんに心配をおかけしてしまいました。ごめんなさい。

 

隣の地区まで津波が来ていた!

 

東京に住む妹からの電話で知ったのか、
そのときはもう知っていたのか、
今となっては記憶が定かではありません。

 

詳しくは、震災の一週間後に書いた、
震災~当事者はわからないんです」をお読みください。

 

※数年来放置しているブログで、
今はログインもできません。
そのため、配色が変ですが、
もう直せません、ご勘弁を。

 

このブログでは、妹の電話で知ったことになっていますが、
真相は逆だった気もします。
「当事者は何もわからない」ということをことさら強調したくて、
もしかしたら、順番を入れ替えて書いたのかも?

 

今憶えているのは、夕方に妹から電話が来て、
「何やってんのよ、お姉さん、逃げて!逃げて!」
と、悲痛に絶叫されたこと。

 

「TVを見て、もうダメだ、と思った」
と、言われたこと。

 

私の自宅は太白区の袋原にあり、名取川の川沿いです。
海からは約7キロあります。
川沿いに河口のほうに向かうと、その隣が四郎丸で、
その隣が閖上(ゆりあげ)です。

 

そしてその閖上(ゆりあげ)が津波に襲われて、
町のほとんどが流されてしまったんです。

 

その様子を、TVがリアルタイムで生放送し、
名取川の河口であることを明言して実況中継され、
全国の多くの人の目に触れることになりました。

 

 

確かにこれは、名取市閖上にご家族や親せきがいる人は、
「逃げていてくれ、避難していてくれ」とただ祈るしかない映像です。
仙台市太白区の四郎丸や袋原に縁故者がいる人も、
うちの妹のように、「もうダメかも」と感じてしまうかもしれません。

 

閖上地区は亡くなった方が多いので、
とても書きづらいことですが、
実際には、私が住む袋原までは津波は来ず
(水が届いた箇所はあったかも?)
隣の四郎丸も津波の先端が畑を覆った場所はありましたが、
家が流されるほどではありませんでした。

 

以下は、国土地理院作成の「浸水域」マップに、
私が大雑把に彩色したものです。
TVに映っているのは、下の図で言うと、
「閖上」という文字が書かれている対岸部分(仙台市若林区)と、
矢印の先端の辺り、それと、この地図より南側に当たる、
海に面した地域です。

 

 

この地図を見ていると、私の家では、
海から迫ってくる水よりも、
むしろ名取川を逆流して遡上する水のほうを、
心配しなければいけなかったようにも思いますが、
皆さんは、「海から7キロ」に対して、
どの程度の距離感を抱きますか?

 

私の自宅から、閖上の海までは、
私が自転車をこいで、約40分ぐらいです。
車だと10数分~20分ぐらいでしょうか。
(町の境界線ならその半分)

 

交通状況や信号のタイミングにもよりますが、
車で10数分って結構な距離です。
近所の仙台バイパスから南下すれば、
岩沼の手前まで行っちゃいます。

 

そのぐらいの距離になると、
自分たちが海辺という自覚は全くないし、
「津波が来るかもしれない」という気持ちはもっとないです。

 

なのに津波の先端は、隣の四郎丸まで来ました。

 

ですが、私が東京の妹から電話で知らされなければ、
または、当日はまだかろうじてつながった、
PHS経由のネット接続で動画を見なければ、
それはわからないことだったんです。

 

閖上に津波が襲来して、
町全体が黒い波に舐め尽くされていた頃、
私と母は、家の片づけに没頭していて、
自転車で行ける身近な海として、
子供達と何度も釣りに行った閖上が、
大変なことになっているなんて、
全然知りませんでした。

 

何の広報車も周ってこなかったし、
地域は静かでのどかで、穏やかで平和でした。
どの家の人も、散らかったものや、
割れ物などを始末しながら、
早くTVが見たいな、などと、
ぼんやり思う程度でした。

 

なのに、停電していない東京の妹を含め、
全国の人達は、今まさに到達している津波を、
リアルタイムで見つめ、
各地の被害状況をつぶさに知っていました。
これを思う時に、災害の当事者ほど、
今、この地で何が起こっているかを知り得ないし、
その手段が絶たれてしまっているのだと思いました。

 

大きな被害はネットで知った

 

停電でTVが使えず、いま宮城県で何が起こっているのか、
詳しく知りようがなくて、やきもきした私でしたが、
「震災~当事者はわからないんです」のブログや、
Twitterの過去ログにもあるように、
暗くなってから「そうだ!ネットがあった」
と、気が付きました。

 

正確には、「そうだ!イーモバイルがあった」ですね。

 

電気が止まっているので、ルーターが使えず、
(たとえ使えてもNTTの設備がダウンしているのでNG)
インターネットもできずにいましたが、
私はイーモバイルの契約もあったのでした。

 

すぐに思い出さなかったのは、前にも書いた通り、
「日常的に使っていなかったから」ですね。
イーモバイルは、自宅のネット回線が不調だった時や、
出張先ホテルにLANがないとき用に契約していましたが、
普段から使っていないと、こういうときにも、
思い出さないんです。

 

ですが、2台あるノートPCのバッテリーはヘタレ気味で、
すでに残量がありませんでした。
そこで、AsusのミニPC(100円PC)のほうを、
なんとか車で充電して、イーモバイルでネットに繋げました。

 

そこで見たものは、各地の沿岸部を襲った津波の動画で、
特に、妹が話していた閖上は、
どこを映しているのかよくわかる馴染みの地域が、
津波に呑まれて行く映像が衝撃的でした。

 

これはぜひ、母にも見せたい。

 

車からの充電だと、PCのバッテリーが、
なかなか満たされて行きませんが、
それでもなんとか、
家でも動画が再生できるぐらいにちょこっと充電して、
庭の車から飛び出し、母に動画を見せました。

 

今まで見たことがないような、
動画がたくさんアップされていて、
二人で、「うわー」と絶句しながら凝視しました。

 

これでは、妹が「逃げて」と絶叫したのも頷けます。

 

思えば、これと似た映像は、
海外で起こった津波のときに、
TVで何度も放映されていたと思います。
なのに、それはあくまでも遠いよその国の話で、
見ても何も考えなかったし、
強い思いも生まれませんでした。

 

ですが、聞き覚えのある名前の町の複数の映像は、
「世の中にはこんなことが起きるのか!」という、
驚きと共に、現実感を持って記憶に刷り込まれました。

その後、再び妹から電話が入り、
「なんで家にいるのよ?」と思い切り怒られましたが、
あれだけの津波が来た後なので、
(よくないことだと思いますが)私はもう津波は来ない、
と思いました。

 

なんというか、貯まっていたエネルギーが、
一度、ドーンと放出されたので、
これより大きい地震や津波は来ないように思いました。

 

それに、「逃げる」と言ったって、
津波さえ来なければ、家が一番快適なのです。
我が家は、その意味では被害が少ない方で、
(袋原地域はどこも似た感じだと思う)
ガスも水道も出たし、電気だけが止まっている、
という状態だったので、街中の人達よりは楽でした。

 

腹が減っては戦(いくさ)ができない

 

夜があっという間にやって来ました。

 

まだ19時前だったと思いますが、
私は心身ともに、へとへとで、
何も食べずに、このまま寝てもいいと思いました。

 

ところがうちの母は、逆に、
疲れてお腹が空いちゃったみたいなんですね。

 

でもこのときは、本当にガスが使えるのかわからず、
もし、火をつけて爆発したらどうしよう?などと思うと、
さすがに煮炊きが怖くて、「明日にしよう」と言いました。

 

でも、うちの母は、負けません。

 

何を根拠に言っているのか、「大丈夫、大丈夫」と言いながら、
寒くて厚着している上着のまま、普通にガスをつけて、
インスタントラーメンをつくりはじめした。

 

はー、母、強し。
ていうか、ガスが爆発しなくてよかった。

 

ちなに我が家はプロパンガスだったので被害を免れましたが、
都市ガスをつかっている地域は、長いところでこのあと、
1か月ぐらいガスが復旧しませんでした。

 

そのため、マンションの最上階に住んでいる私の知人は、
友人宅で風呂をもらうために階段を歩いて外出し、
帰って来てはまた高層階まで階段を上がり、
たどり着くのも大変な上に、また汗だくになった、
と、あとで聞きました。

 

それにしても、真っ暗中で調理するって、
すごくやりにくいものですね。

 

写真は懐中電灯の灯りを頼りに、
震災当日の夜、果敢にインスタントラーメンを
つくる母の後ろ姿ですが、
この写真を佐藤正実さんが気に入ってくれて、
その後、色々なイベントで使っていただきました。

 

 

電気な来ないということは、
19時にはもう、辺りが静まり返る漆黒の暗闇です。
この日は二人ともすごく疲れたので、
20時には就寝したと思います。

 

余震が何度も続くので、
離れずに一緒に居ようということになり、
何十年かぶりに、布団を二つ並べて、
母の隣で休みました。

 

明日の朝は、通常なら明け番の夫が帰ってきますが、
本当に帰宅できるんでしょうか?
さっきの電話では、
「家の中がひどいから帰らない方がいい」と言いましたが、
本当にそっちのほうがいいように思いました。

 

夫の職場にも自家発電の設備があり、
職場にいる限り、あまり不自由はなさそうが気がしました。

 

そんなことを考えながら、
震災初日は、すぐに眠りに落ちました。
たぶん、20時ちょっと過ぎぐらいだったと思います。

 

電気がないというのは、想像以上に真っ暗で、
想像以上に静かで、想像以上に不便です。

 

私の3月11日はここまでです。
随分時間をかけて書いてしまいました。
翌日以降のことは、機会があればまた書きたいと思います。




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