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原文が掲載されているサイト

A Dubious History of Capacitors
(コンデンサの不思議な歴史)
※翻訳してほしい文章ブロックは単語数534



クラウドソーシング「ランサーズ」

最初に依頼した方の翻訳(¥1,485)

(たぶん読んでも、あまり関心が持てない内容と思いますが?)

雲母:

ウィリアム・ドゥビリエが登場した。ドゥビリエ(1888~1969)は、ラジオに興味のあるニューヨークの少年だった。彼の目標は、小さくて、頑丈で、手ごろな飛行機用の無線通信機を作ることだった。そのような無線通信機は、ライデン瓶とは違う小さくて、頑丈で、手ごろなコンデンサーがあれば作ることができる。人々はしばらく前から、もっと実用的な、高電圧のコンデンサーについて思いをめぐらしており、白雲母が選ばれるべき材料だという一般的な合意があった。テスラは1891年に、油(464,667)の中の瓶に入った初期のマイカ真空コンデンサーを設計している。

実は、その特許は、雲母、ガラス、その他の絶縁体を含んでいるように思われる。特許権が油紙にも及び、油は特許が及ぶ部分だと考える人もいるようだ。1910年、ドゥビリエは高電圧用の大まかなマイカコンデンサーを作ったが、非効率的で信頼性に欠けるガラスコンデンサーに取って代わるのにふさわしい、より優れた信頼性のあるものを開発することを目指していた。ドゥビリエはその年にそれを海軍に見せたが、試験中に壊れてしまった。ドゥビリエはおそらく、さらなる開発のために資金を得ようとしていたのだが、海軍はよい印象を持たず、その評価は低かった。1913年、ドゥビリエはマイカコンデンサーを英国戦争省に見せた。彼らはより良い印象を持った。そのマイカコンデンサーは、それがとって代わったライデン瓶の一式よりもかなり小さく、より効率的で、彼らは将来性があると考えたのだ。

それに続く数年間で、マイカコンデンサーはイギリスでドゥビリエとイギリス人の同僚たちによって開発され、製造された。それは容易なことではなかった。ひとつの実用的な部品を作るために数えきれないほど多くの設計・製造上の問題を解決しなければならなかった。例えば、雲母は地中から掘り出すもので、小さな穴、ひび、空気穴、含有物など、様々な欠陥を持っている可能性がある。各プレートを迅速かつ効率的にテストする方法を考案しなければならなかった。1個のコンデンサーは、厚さ.002″のプレート千枚を使うことになるのである。しかしながらこの問題やその他の問題が克服され、ドゥビリエコンデンサー会社が大量のマイカコンデンサーを作り続けたため、良質な雲母の価格が著しく高騰し、深刻な供給不足を招いた。同社は年間5千万枚のプレートを使用した。ドゥビリエ社は真の大量消費コンデンサーを作る最初の会社となり、まもなく他の会社もそれに続いた。

マイカコンデンサーはガラスに比べて大きな改善を遂げ、ESRを低減し、オゾンを無くし、ブラシ放電を無くし、寿命を大きく伸ばし、サイズが小さく、とても頑丈であった。最終的に、ドゥビリエ社はマイカコンデンサーを自己回復的なものにさえした。しかし、マイカコンデンサーは一気に無線通信機の世界を完全に占領したというわけではなかった。ライデン瓶は時が経つにつれ改良され、マイカコンデンサーが高価であったため、応用場面によっては費用対効果の高さを維持していた。また、長年にわたるマイカコンデンサーへの不信感があった。中には1920年代に至るまでライデン瓶を使っている人もいた。ライデン瓶は死んではいない。趣味に熱中する人たちは、今でも高電圧の実験にビール瓶コンデンサーを使っている。

近い将来、マイカコンデンサーは電子機器の必需品の一つとなり、小さな部品は今日に至るまで入手可能だ。大きなプレートから作られる大きなマイカコンデンサーは数が少なくなる。高品質の白雲母のプレートは入手が限られており、世界の供給源のほとんどが使い果たされている。今日、大きなマイカコンデンサーがまだ作られているが、様々な接着剤(エポキシ樹脂、シリコン、ポリエステル)で接着したマイカ紙や雲母片で作られている。

あとから依頼した方の翻訳(¥2,700)

(ほとんどが5000円以上の提示だったので、この金額でも安いんですけど・・・)

マイカ(雲母):

そんな頃現れたのが、ウィリアム・デュビラー(1888-1969)でした。彼は無線通信機器にとても興味を持ったニューヨーク育ちの少年でした。彼の目標は、航空機の無線通信機用に、小さく頑丈で安価なコンデンサーを作ることでした。彼はライデン瓶にはないそのような特徴を持ったコンデンサーを使った無線通信機は有益であると信じていました。当時、専門家達はさらに実用的な高電圧のコンデンサーを作ることを思索しており、硬質マイカ(白雲母)を使用することが一般的な考えでした。1891年、ニコラ・テスラが絶縁油を使用した初期の真空マイカコンデンサー(464,667)を考案しましたが、その特許には、マイカ、ガラス、その他の誘電体も含まれており、油浸紙そして絶縁油までもが特許の一部と考える人もいました。1910年、デュビラーは高電圧用の粗雲母を使ったマイカコンデンサーを作りました。しかしこれは、非効率的で信頼性のないガラスコンデンサーの代用となりうる、より良い物を作るためでした。その同じ年に、彼は海軍に自分の作ったコンデンサーを実演して見せようとしましたが、テストの最中に壊れてしまいました。彼は更なる開発のための資金を得たかったのでしょうが、これにより海軍には悪い印象を与えてしまいました。1913年、デュビラーはマイカコンデンサーを当時の英国国防省に実演して見せました。実演は成功し、英国国防省は彼のコンデンサーにとても興味を持ちました。それはライデン瓶を連ねたものよりもとても小さく効率的だったので、英国国防省はデュビラーのコンデンサーには将来性があると考えました。

それから数年、マイカコンデンサーはデュビラーとイギリス人の技術者・研究者達の手によってイギリスで開発、生産されました。しかしこれは簡単なことではありませんでした。実用的な物を作るためには、設計と製造面での問題が山積みでした。例えば、マイカは地中から採掘される鉱物のため、小さな穴や、ひび、空洞、包有物など、いろいろな欠陥が見つかります。迅速かつ効率的にプレートをテストする方法を考える必要がありました。ひとつのコンデンサーには、1枚が厚さ.002インチ(0.00508センチ)ほどのプレートが1,000枚ほど使われているのです。デュビラーコンデンサー社はこのような問題を克服することはできましたが、マイカコンデンサーを量産することにより、良質なマイカの価格の急騰と深刻な供給不足という新たな問題が起こりました。デュビラーコンデンサー社は、1年で5000万枚ものプレートを使いコンデンサーを量産する最初の会社となり、他の会社も後に続きました。

マイカコンデンサーは、低い等価直列抵抗(ESR)、オゾンの発生・ブラシ放電がない、寿命が長い、コンパクトで頑丈というのが特徴で、ガラスコンデンサーよりも大変優れていました。さらにデュビラーは、それに自己修復機能までも付けました。そのような特徴を持ってしても、マイカコンデンサーは無線通信機器の分野を席巻することはできませんでした。マイカコンデンサーが高価である中、ライデン瓶の性能は徐々に向上し、用途によっては低価格を維持していました。また、長期にわたりマイカに疑いを持つ風潮もありました。1920年代に入ってもライデン瓶は忘れ去られることなく使用されました。現在でも愛好家は高電圧の実験のために、ビール瓶で作ったコンデンサーを好んで使います。

現在、マイカコンデンサーの生産数そのものは多くありませんが、将来、マイカコンデンサーは電子技術を支える主要な柱のひとつとなることでしょう。そして、大きいプレートを使ったサイズの大きいマイカコンデンサーの生産は減少することでしょう。高品質の硬質マイカ(白雲母)プレートの供給は限られており、世界に存在する資源はほとんど無くなってしまいました。

サイズの大きいマイカコンデンサーは今日もなお生産されていますが、それらはマイカフレークにさまざまな粘着性物質(エポキシ、シリコーン、ポリエステル)を接合したマイカペーパーを使用しています。

これらを基に書いた記事

コンデンサの歴史③~初めての大量生産で雲母の価格が上昇~